10,000 BCE — 3,000 BCE
新石器時代
人類が農業を発明し、村に定住し、自然界の改変を始める。
東アジア
秋の落葉に包まれた縄文時代前・中期の集落では、竪穴住居が並ぶ林間の広場で、人びとが石のハンマーと台石を使ってクリやクルミ、ドングリを割り、すりつぶした実を籠や縄文土器でアク抜きしながら炉火を囲んでいます。足元にはシカ角製の道具や編み籠が整然と置かれ、犬たちが静かに寄り添う姿も見え、定住性の高い縄文社会の日常が生き生きと伝わります。縄文人は稲作が広がる以前から、豊かな森林資源を巧みに利用して堅果類を保存・加工し、土器や木工、編組品を組み合わせた高度な採集生活を営んでいました。
ヨーロッパ
晩秋のヨーロッパの落葉樹林の小さな開け地で、黒褐色の巨大なオーロックスの牡牛が、湿った落ち葉に蹄を沈めながら耳を立て、前方へ大きく湾曲する角を構えて狩人たちを警戒している。周囲にはハシバミの茂み、シカの足跡、朽ち木の菌類が見え、弓に火打石の矢をつがえる者や磨製石斧を握る者の姿が、農耕が広がりつつもなお広大な森が支配していた新石器時代ヨーロッパの風景を物語る。オーロックスは家畜牛の祖先であり、この時代の人びとにとっては食料・素材の源であると同時に、命がけで向き合うべき野生の脅威でもあった。
海風に撫でられた草とヒースの上を、編んだ髪に骨や貝の留め具をつけた村人たちが、土で覆われた通路墓へ静かに進んでいく。彼らの手には、素朴な土器や幾何学文を刻んだ器、磨き上げた石斧、シカ角の供物が抱えられ、巨大な花崗岩の板石で築かれた狭い入口の前には、すでに捧げ物が丁寧に並べられている。こうした通路墓は紀元前4千年紀の大西洋岸ヨーロッパ、ブルターニュやアイルランドに広がった巨石記念物の代表であり、祖先儀礼と共同体の結びつきを示す場であると同時に、遠方から運ばれた良質な石材が当時の広い交流網を物語っている。
アメリカ・アフリカ
紀元前5千年紀のタッシリ・ナジェールでは、夕暮れの砂岩の岩陰の前で、編んだ黒髪にダチョウ卵殻のビーズを飾った牧畜民と採集民たちが、赤と白の顔料で彩られた身体を揺らしながら輪になって踊っている。背後の岩壁には、長い角をもつウシ、キリン、仮面をつけたような人物が描かれ、当時のサハラが現在の砂漠ではなく、草地や湿地をともなう「緑のサハラ」だったことを物語る。こうした岩絵は、家畜化の進展、移動する牧畜生活、そして共同体の儀礼や信仰が結びついていたことを示す、先史時代アフリカの貴重な証言である。
オアハカ高地の乾いた谷あいに営まれたこの小さな集落では、草葺きの粗末な家々のそばで、人びとがトウモロコシやカボチャの小さな畑を世話し、石のメタテで穀物を挽き、ヒョウタンや黒曜石の刃を日々の暮らしに使っている姿が見える。紀元前500~300年ごろのこの地域は、後の壮大なサポテカ都市が成立する以前の形成期にあたり、家族単位の農耕と家内生産が生活の中心だった。乾燥した高原環境のなかで育まれたこうした庭畑の暮らしは、オアハカにおける定住村落社会の基盤を形づくった。
黒い岩礁に白い波が砕け、アシカが吠え交わす浜辺で、アンデス太平洋岸の先土器時代の人びとがムール貝やカサガイを石や骨の道具ではがし、籠に集めています。前景では子どもが貝籠を運び、そばにはトトラ葦で編んだ魚罠や潮だまりの仕掛けが置かれ、ペリカンや鵜が冷たいフンボルト海流の海辺を縁どります。紀元前4千年紀後半のペルー中央海岸では、こうした海産資源の採集と綿網・葦製漁具を用いた漁撈が暮らしの基盤となり、貝塚の蓄積がこの豊かな沿岸生活を今に伝えています。
海洋
夕暮れのレヴァント海岸では、石灰岩の岬に湧く小さな泉のそばで、人びとが立て並べた自然石の前に貝殻や魚の骨、赤い顔料を染みこませた小石、穿孔した石の玉を静かに供えている。これは先土器新石器時代から初期土器新石器時代にかけての東地中海沿岸社会を想起させ、水の湧く場所と海が出会う境界が、日々の漁労や採集と結びついた特別な祈りの場であったことを示している。金属器も神殿もない簡素な景観のなかで、海鳥の旋回する薄暮の海とともに、海辺の暮らしと信仰がひとつの風景として浮かび上がる。
大西洋の荒波を見下ろす岬の上に、新しく築かれた石造の通路墓が立ち、白い飛沫を上げる海と、風に伏す草原、放牧される小柄な牛たちがその周囲を囲んでいます。手前では、紀元前380〜320年ごろのブルターニュまたはアイルランド西部の農耕民たちが、植物繊維の粗い外衣と革の履物をまとい、土器や籠、穀物、磨製石斧などの供物を抱えて厳かに墓へ向かいます。こうした海辺の巨石墓は、大西洋沿岸に広がった新石器時代の巨大石造文化の一部であり、祖先崇拝、共同体の結束、そして海を通じた広域のつながりを物語っています。
干潟が広がる日本の河口で、縄文時代中期から後期の人びとが、カキやハマグリを籠により分け、その背後には白灰色の貝塚が幾世代にもわたって積み重なっています。樹皮布や獣皮の衣服、貝や骨の装身具、煙の立つ炉のそばに置かれた縄目文土器、そして半地下式の竪穴住居は、海や汽水域の資源を巧みに利用した縄文のくらしを物語ります。貝塚は単なるごみ捨て場ではなく、食生活や道具、集落の継続的な営みを今に伝える重要な遺跡であり、先史時代の沿岸社会の豊かさを示す考古学的証拠でもあります。